明楼藩家長(後)
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浮かび上がって来た意識が一番初めに感じたのは、思い出した様にズキリと頭に走る鈍い痛みだった。
まだ視界は暗い。開けようとする目蓋は重くて
少しでも気を抜けばまた強烈な睡魔に沈んで行く様だった。
自分は一体どうしていたのか…暗闇の中に浮ぶ映画の様な記憶の断片。
使いを頼まれた帰り道近道しようと曲がったあそこで…
飛び出して来た。
半裸の女と
追って来た男達
目があって。
あっと言う間に暗くなった視界。
それから、それから…
目が覚めたり、沈んだり
曖昧な記憶。
どの位眠ったのか、とにかく起きなきゃ、このままでは眠ったまま死んでしまいそうだと…
その時、
自分の顔のすぐ上に、何者かの気配。
「御目覚めかい?」
すっと目蓋の上に落ちたのが指の感触だと知ったのは少し後だった。頬の骨格をなぞってと顎へ抜けて行く。
骨張ったくせに細い男の指先。
「…水野竜也君。」
----!!
聞き覚えの無い声に、危惧を感じたのはとっさの事だった。今まですっかりくっ付いて居た目蓋を少しずつ開けば…
目の前には、見知らぬ男。
丸眼鏡をかけた切れ長の狐目が、自分を見下ろしながら笑んで居た。
年は…年は十程上だろうか…
「大丈夫かい?」眉を寄せる竜也にも男は愛想良く返すと、ベットの端へと静かに腰かけた。
誰…だ?
まだ茫漠とする意識の中、辺りを見回そうとふと首を横へ寄せようとしただけで激しい頭痛に襲われる。
「ああ、無理は行けない。まだ麻酔が切れて間も無いからね、」
『ますいだと!?』
「っ…・・」
だが、声にはならず
丁重に自分の着物の襟元を直しながらニヤ付くその男に、
ぞっと悪寒が走った。
と、その時、ほんの少し閉め忘れられて居た襖の隙間から、
鼓膜をつんざくような女の絶叫が響き渡ったのだ。
起き上がろうとした肩を慌てて掴まれる、途端襲った激しい吐き気に口元を抑えてベット?…否、自分が寝かされていたソファーに、沈みこんだ。
「いけませんよ。急に起き上がるのは危険だ。」
「あれは手術なんですよ」
竜也がもう一度起き上がろうとする前に、男は早口でそう述べて居た。
「手術ですって…?御黒屋さん…」
「おや、覚えててくれたのかい…竜也君、」嬉しいね…そう言って、下から睨み付ける竜也ににっこりと笑ったのだった。
赤いソファーに、大理石を使った壁と床、濃茶と黒、そして金を基調とした何とも…良いとも悪いとも付かない…
奇妙で、高価な部屋には大きな暖炉が燃えて居た。
御黒屋の現店長を任される1人息子その悪僻の噂はこの界隈じゃ、もっぱらの噂で、
竜也も知らない訳では無かった。
先日、破談に終った水野と御黒の商談が脳裏を掠めて…
「一体何のつもりです?…仕返しのつもりでも?」やっと、起こせる様になった上半身でソファーの上に起きながら、
くっと低く嘲った竜也に、相手の眉がこれでもかと言う程大きく寄せられて
「とんでもない。」と嘆く。
「僕らは、誘拐犯でも、人殺しでもありませんからね、」
しかし端からフンと信じていない竜也に苦笑い。
……。
「まあ、仕方ないかも知れませんけど、確かに合法的ではありませんからね」そう言って、竜也から視線を反らすと、テーブルのカップへと長い柄の付いた急須から茶を注ぎ出した。
そのなんとも言えない、違和感は何なのか、先日の商談で始めてあって以来ずっと、この男の一挙一動が妙に感じて仕方が無いのだ。
なんとも言えない、礼儀正しさ…なのに違和感…
まるで、
まるでそう、男の癖に女のような…
男…女?
「実は家は、堕胎屋なんですよ…」目の前に差し出されたカップに、思考が止まってドキリとする。
「堕胎?」
カップからは、どう見ても琥珀色の焙じ茶の香り…
「そう、我々西洋医学を学ぶ者はまだまだ肩身が狭くてね、ちょっと新薬を持ち込めばすぐに憲察の尋問と檻箱が待っています…」
異人はまだまだ奇異と異端の象徴ですからね…
「一つのクスリができれば何千何万人の命が救われる、その為には犠牲を払わなければならない時も…」
「…それで、人体実験を?」「まさか、動物でも心は痛むでしょう?」
「どうだか…」
そう言った竜也に振り返った彼の顔は明らかに困っていたけど、やがてそれが険い物へと変わって行った…。
「こんばんわ〜」と迷う事無く、御黒屋の黒部さん家の裏口を開けて笑う成樹の横で、あまり乗り気の無い顔の光徳が続いて居た。
「どちら様でしょう?」
と出迎えた女中にニッコリ
「ども、若だんなに呼ばれて来た者なんやけど」と、
それに一瞬「?」になった女中だったが、すぐに何かに気付くと、
「どうぞ、」
とあっさり二人を中に招き入れ、
応接間に通すと、そこで待っている様にと二人に告げて、どこかへ去って行った。
「…ほんまに来てもうたな、君って人は…」言いながら、出された茶を何の警戒も無しに飲むノリックに、シゲ吃驚。
「なっ、お前何しと…「大丈夫、客にはまだ毒なんか入れんて。」
「ええからそれ置いて…行くで…」
と席を立ったシゲに、急いで従うノリック。
さっきの女中が帰って来る前に部屋を出ると、人目を盗んで
向かいに在った階段を一気にかけ登った。
ここはお互い身の軽い者同士。
旅館のような豪勢な作りの館内を歩き、幾つもの扉の中から、彼が目に付けたのは、一番奥の扉だった。
足音を忍ばせて…そっと体重をかけると、キイと小さく鳴る扉、そして数センチの隙間の向こうには、予想通り、人の影。
思わず、しめた。と思うと同時に走る緊張…
「なあ藤村」「なんや?…」こないな時にと、
「さっきの変態の話しなあ、」
「おう」
「あのおかま、正直僕は苦手なん、」
その時、明りを覗いて居たシゲの背中が強張った。
「ノリ…見ろや、アレ」
そこには、誰も居ないと思っていた部屋の本箱が、微かにぱたんと最後の一音を立てて
壁へと戻ったのだ。
「うしろや…」
そー言えば、この部屋は外の壁より奥行きがやけに短いと…
中に入ろうとしたシゲの背中を引っ張ったのは、ノリックだった。
「向こうの壁、回るで、」・・・・・。
「はよそれ言えや、」
あっはっはアホやわここん家、と
つっこみながらも、
向こうから来る人の気配に慌てて身を翻すと
物陰に姿を消して居た。
「ほな、ノリックはこっちの部屋から回る囮な、」
「いややねん、姫や無いとやる気でんわ」と愚痴りながらも、隙間から出て行く背中を見送って
そっと壁に付けた耳をすました
始めて、心臓の音が自分の中からこだまして来る。
一つ一つの物音を丁寧に読み取って、
そして…
「なあ若さん、ウチの連れとはぐれてもうたん。ちと探して貰えんかな?」
響いた声と同時に、壁の中へと飛び込んだのだった。
…!
オレンジ色の電球に照らされた、閑散とした狭い部屋。
躓きそうになった白い布からはみ出たそれは…「何の…剥製や…?」
首も、足も尾も無いそれが皮を剥がれて乾かされた熊の上半身で有った事に
彼が気付く訳も無かったが、
と、その時、進んで行く自分の足音に混じった微かな、吐息…
いる、誰かが!
あちこちに積まれた木箱の隙間に見えたのは…
おった!
まさか本当に、居るなんて…半分以下の思い込みで、よくぞここまできたものだと、今になってやっと事の無謀さに気付きながら、
モロ…人質です。と言わんばかりに縛られて、床に転がる竜也の側によった途端…
逃げようとする彼に気が付いて、覗き込めば、
酷く昂揚した頬や目元も、扇状を通り越して痛々しかった。
「…!?」
いぶかりながらも、
「あんた水野さんトコのボンやろ?」と…
「俺は藤村成樹っちゅうもんやけど、」
その声に、一瞬だけはっとなった瞳がこちらに向けられたが
また、あっと言う間に眉を歪めて床に沈んでしまった。
「あんた、何があったん?」
一体何が起こっているのか、正直言えば、さっぱりだったけど、
彼が彼の中の何かで酷く苦しんでいる事だけは明らかだった。
そっと、彼の横へ膝を付いて座り込むとそに縄へと手を伸ばす。触れる度に
逃げようとしたり、頭をふるその様に
嫌でも何かを連想させられて
「なあ、頼むからじっとしたってや…」と
知らず知らず、自分の頬まで熱くなるのを押さえられなかった。
嫌がる身体をどうにか押さえながら、手足の縄をほどき、
口を覆って居た轡をちぎった瞬間、
それは起こった。
身体を起こしてやろうと、自分の肩にかけさせた腕があっと言う間に首に巻き付いて、気付いたら、深く呼吸を重ね取られていた。
縋り付いて来る手は酷く熱くて、時折震えの走る背筋が、ひどく切なかった。
そんな怖い目にあっとったんやろか?
驚くものの、思いながら抱き返せば、そのままぱたんと、床へと倒れる身体。
…果たして
自分を映しているのか居ないのかも判らなかったけど…
吐息をつきながら、滲んだ瞳が、覆いかぶさる自分を見上げていたのだった。
「…タツボン?」
呼べば、何かを読み取ったかの様に、ふと目蓋を伏せて視線を反らしていた…赤い頬。
ずっと側へ寄せてみたかったその人が
目の前に居るのだ。
目の前に居て…そして自分へと差し出された、身体…
なすがままになっている竜也の着物に、ゆっくりと手をかけてく…
やがて現れた、そのなだらか胸へと沈んで行く事に、彼もまた、ためらわなかった。
殆ど、赤の他人同然だと言う彼と、
まさか何もかもすっとばして
突然ここまで来てしまうなんて…
なんて、そんな事が思い受かべられたのはもっとずっと後の事で。
その時は、
「あかん、もう限界や、藤村〜藤村〜!どこにおるん!?」
と言う、ノリっクの悲鳴にはと我に返った瞬間、目の前に、くてんと倒れた竜也が眠って居たのだった。
彼を背負い、勢いよく廊下に出ればちょうど向こうから、警備員を背に走って来るノリックが見えて、
そのまま二人して窓を蹴やぶったすぐ横を、
鉛のタマが通って行ったのだった。
運良く出たのは、隣の店との路地裏で、あっちこち打ち身になりながら、ほうほうの体で水野屋に飛び込んだのだった。
数日後、
「あの日は、多分、隣の部屋に用が有ったせいでたまたま人手が薄かったんだよ…」全く無茶をして…
と、見舞いと称して遊びに来た成樹を、ベットの上から睨み付ける竜也がそこに居た。
日本人にはめずらしい、薄い色素の持ち主で栗毛の下には薄い皮膚。
綺麗な顔に似合っているのか居ないのか、
その四角い性格にも大分なれて来て
何をするでも無いのに、毎日ここにこうして通うのが、
シゲの日課になって居た。
特に何所が悪いと言う訳でも無いが、藤村の家を抜出す時間が時間のものだから、大体いつも竜也は布団の中、と言う構図が当たり前になっていた。
「で、身体は平気なん?」「ああ、何とも無いよ。…お陰さまで」
「そりゃよかったわ」
「・・・・・。」こいつは覚えて居るのだろうか?
いや、覚えて無いなら、思い出させる訳にも行かず、
聞きたくても、聞けないあの日の事。
「…藤村、」「あ、シゲでええから。」
「ああ、その…・・・」
時間いいのか?
「平気や、」
と言うシゲの後ろの窓から、向いの藤村の窓から旗振る光徳の姿が竜也にはまる見えで。
それを読んだのか後ろ手で障子をぴしゃりと閉めると、竜也の側へ来て
もう一度、座り直した。
「なあタツボン…」真面目な顔で切り出した、が、しかし
「タツボンはやめろよ…」
と離されて。
「〜〜…。」
「あー…、ほな今日は帰るわ。」「ああ、そうだな。じゃあ」
そうふと竜也が笑いを噛み殺した瞬間。
立ち際に重なった温もりが離れて行ったのだった。
戸が閉まると同時に布団の中に潜り込む竜也。
思い出さない様にしてきた、あの日の感触が甦って知らずと身の奥が熱くなって居た。
「あ、しもうた窓閉めっぱなしにして来てしもうた…」と向かいの窓からこの為だけにバイトで買った望遠鏡を向ける成樹の姿に
レンズの前についたままのキャップの事は、黙っている光徳だった…。
それから、わずかな少年時代を得た後
藤村と水野の密会が何時まで続いていたのか、誰も知る者はいない。
ただその通りの古い桜の木だけが、静かに時の真実を眺め続けていた。
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このシゲは、シゲではないと言う事で…(泣)純愛と犯罪は紙一重(?;)だった…
日露戦争後がこんなであったかどうかは全く判ってないです(--;)
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